今日は昼まで眠り、低エネルギーのまま、散髪屋の青年とランチに出かけ、銀行で雑用をした後、精神科、心理カウンセラーに診てもらいに出かけ、帰り際に新宿の立ち食い寿司を食べて帰ってきた。
才能とは死ぬかと思うほど自分を追い込んで見なければ、あるかないかはわからないのではないかと思う。
ありとあらゆる手を尽くし、死ぬかと思うほど、詰めきってみると、「あー、これは私には到底できないな」と思うことがある。
ありとあらゆる手を尽くすためには素直でなければならず、予見を捨て、わかっていると思わず、出来ない理由を並べず、ただそれを聞き、ただただそれを見つめることができなければならない。
そこまでやってみると、「詰める」という作業では到底追いつくことの出来ない、「何か」に出くわす。
その「何か」とはつまるところ、個性であり、その人の生きた道のりであるが、それこそ、才能の本質に違いないと思う。
この境地に至ると、嫉妬と言うようなものはなく、人と人を、そして、人を自分と較べることもなく、ただただ全ての人の才能が輝いて見えるようになるのではないかと思う。
もし、自分が人の良いところに着目することが出来ず、個性と才能を認めることが出来なければ、己の才能と向き合う境地に至っていないのだと思わなければならない。
人生の厳しさは、その個性と才能を持って、競争とライフステージ上での出来事の中で、自分の居場所を見つけなければならないということ、その居場所がどこなのか誰も教えてくれないこと、やりたいことと出来ることが異なる場合があることに多くは起因するのではないかと思う。
さかはら
ある人間をにくむとすると、そのときわたしたちは、
自分自身のなかに巣くっている何かを、
その人間の像のなかでにくんでいるわけだ。
自分自身のなかにないものなんか、
わたしたちを興奮させはしないもの。
― ヘルマン・ヘッセ ―
(『デミアン』)
究極のところ、憎むということも恨むということもない。
あるのは理不尽だけである。
さかはら あつし
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